私たちは言葉を通して世界を見ている

埴谷  「虚体」というものは、現宇宙を越えたものです。実体というのは、いま言った AAから出発し、できるものが実体なんですよ。自同律によって支えられている世界が実体であり、われわれの科学も、一応そのうえに成り立っているわけですよ。それを自同律でない  ―自同律の不快ということは、その自同律でない世界をつくろうというわけですね。その世界は、時間と空間と自分に制約されない何かでなくてはならないけれど、その虚体というものをどういうふうに表すかというのが非常に難しいことなんですよ。というのは、実体的な形、つまり、ボードレールのいう色と匂いと響きでやはり書かなくちゃ駄目なわけですよ。よほどうまく書かなければ、読者の想像力に、虚体というものはこういうものだというふうに、なかなか納得されないしね。しかも、文学のすごいところは、やはり本当に書いてないと読者には本当に納得されないということなんですよ。古典が優れているというのは、どう読んでもこう読んでも納得されるというふうに書いてあるということなんですね。どんな虚のようなことが書いてあってもそれを容認するわけですよ。

― 虚体が自同律によって支えられているこの世界を超えたものということですが、一言でいえばどんなものでしょうか。

埴谷  要するに実体のないものですよ。つまり、イマジナリーナンバー(虚数)のイマジネーションですよ、簡単に言えば。想像がそのまま現実になるというようなものですね。それをどうしても表現したいのです。ただ、非常に難しく、言葉で表現できるかどうか分かりません。夢を見るような、何かイメージとイメージをつなげる、何らかの表現方法はあると思いますけどね。 

(白川正芳編集 「埴谷雄高独白“死霊”の世界」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

   われわれが事実ともよぶ諸現象は、その本性に従えば確実に規定されたものであるが、これに反して、それらが現れてくる限りにおいては、しばしば不確実で動揺している。自然科学者は諸現象の確実なものを捉え、しっかり保持しようと努める。彼は個々の場合において、諸現象がいかに現れてくるかだけでなく、それらが本来いかに現れるべきであるかにも注意を向ける。私が研究している専門分野において特に観察できるように、経験的な端数のようなものが多数あり、純粋な恒常的現象をえるためにはそれらを棄て去らなければならない。しかしながら、あえてそうすることによって、私は直ちにもう一種の理想を立てることになる。
   それにもかかわらず大きな違いがあるのは、理想家たちがよくやるように仮説のために端数を切り上げてしまうか、それとも、経験的な端数を純粋な現象の理念のために犠牲にするかということである。
   なぜなら、観察者は純粋な現象を眼で見ることはけっしてなく、多くのものが彼の精神状態、その瞬間における視覚器官の状態、光・空気・天候・物体・取り扱い方その他いろいろな事情に依存しているため、現象の個性にしがみついて、これを観察し、測定し、軽量し、記述しようとするのは、海を飲み干すようなものだからである。

(ゲーテ著/木村直司訳 「色彩論」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

   だいたい、常識というものがどのようにして形成されるのかを考えてみるならば、それがある社会全体の中で人びとがより合目的的に生命を維持しうるための、いわば「生活の知恵」としてにほかならないことが容易に理解できる。このような意味での常識は、そもそも生物が複数で共同体を形成して、この共同体の中で生存の道を求めようとしているところには、くまなく成立するものであろう。常識とは共同的生存の必要上、生存への意志それ自体によって生み出されてきた理法なのである。だからこそ常識は、生存欲求の基本公式 1=1 をみずからの「世界公式」として採用したのであろう。そしてこのような常識は、きわめて鋭敏な感覚を身につけて、共同的な生命的現実をすこしでも脅かすような非常識を、用心ぶかくしかも徹底的に共同体から排除する監視者の役割を帯びるようになったのであろう。しかもそのさい、常識にそなわっている鑑識眼は、その非常識がなお常識の支配下にとりこまれた、いわば基本的には常識的見地からなされた単なる「誤り」としての非常識であるのか、それともそれの存在が常識の存立を根本的に否定し、独立の支配権を要求するような真の非常識ないし反常識であるのかを、ただちに見わけるだけの鋭敏さを有している。そして前者に対しては、常識はその「誤り」を正すことによって常識的合理性に復帰させようと努力するだろうし、後者に対しては、これを徹底的に排除しようとするだろう。

(木村敏著 「異常の構造」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

   われわれには、こんな選択より他にこの現実の生き方があるのじゃないか?という問いが唇を離れるか離れぬかにおっかぶせられる≪にせ≫の言葉、「現実を直視する・直視せよ」。すなわちそれは、現実をかれらがわれわれに求めるような見方でよりほかには見るな、ということである。現実を根源にまではいりこむようにして見るな、と一般化してもよいであろう。現実について、それをあたえられたイメージのまま受け身でうけとるのでなく、あたえられたイメージを造りかえ、自分独自の現実のイメージを構想する。それが想像力の働きだということを考えるならば、民衆の想像力を(それを政治的想像力と単一化する必要はあるまい)押しつぶすものとして、この≪にせ≫の言葉が繰り出される。「現実を直視する・直視せよ」
   想像力?絵空事、夢の話か、という反撥には、僕はその反撥のあらわれかた自体が、想像力についての曲解にもとづくとしばしばのべてきたが、ここでは一応その反撥を受けいれて次のようにいおう。はっきり醒めた意識、知覚、科学的観察と論理によって、あなたがわれわれをとりこんでいる現実世界について能動的にひとつの意見をつくる。それに対してたちまちこの≪にせ≫の言葉が、居丈高におっかぶせてくるだろう。個人の偏向した意見にみずから眼を閉じてしまうな、「現実を直視する・直視せよ」。あなたが自分の眼で現実を見つめることを止め、屈服してしまうまでこの声は響き続けるにちがいない。

(大江健三郎著 「言葉によって」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

   われわれは科学のもたらした人間的悲惨というものを数多く経験してきましたが、今後もなお、むしろなお徹底して科学者によってみちびかれるのでしょう。志賀直哉の予感したとおり、冷えてゆく地球からの、人間の自己救済の手だては、やはり科学にしかないのですから。しかしわれわれは、自分の想像力に立って、宇宙―世界のなかの、小さいが根本的な要素としての人間、という認識が生きている想像力に立って、科学者の教示を、受け身でなく、積極的に受けとめる準備をしていなければなるまい、と思います。そうでなくては、科学の悲惨に対して、人間の名においてそれを拒絶することは不可能ですから。
   ここで再び、想像力とは、人間の内部から自発する力であることを考えていただきたいのであります。それは受け身でみちびかれるのではない。積極的に、われわれの人間としての核心から、外へ開いてゆくものであることを、その本質とします。また、想像力の基盤は、その人間のひとりの個人としての全体性にある、ともまた私は申したいのであります。この宇宙―世界のなかにひとりの人間としてどのようにあるか、ということは想像力によってしか把握できませんし、逆にそのような想像力が、このひとりの人間をその全体性において決定するのです。

(大江健三郎著 「言葉によって」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

(…)よく言われることですけども、火薬と、それから紙と印刷、羅針盤、それが全部中国起源だという。それは象徴的に言って、軍事と情報と交通でしょう。そういう本来世界を支配しうる普遍的な性格を持ったものが、イスラムを経てヨーロッパに達したときに、そこではじめて普遍的なものとして取り扱われ、現実に世界を支配する道具になった。その意味で普遍化はヨーロッパに固有であったというような感じがあるわけです。
   もうちょっと空想力を補ってホラを吹きますとね、いまの印刷術の問題にしても、漢字というのは一見印刷になりやすいと思うんですよ。”もの”そのものですから、判こみたいなものでしょう。ところが一方では、それは非常に普遍化しにくいわけですね。漢字のもつ個別性のおかげで発想としては出てきやすいけれど、普遍化するためにはアルファベットのほうがいいわけでしょう。で、あのころ印刷術が発達したのはヨーロッパと朝鮮だというでしょう。朝鮮はちょうど諺文ができる時期ですね。諺文はアルファベット的なんですね。

(森毅 竹内啓 著 「数学の世界」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

たとえば英語では偶然に当たることばとして、次のようなものがある。
     accident,chance,eventuality,fortuity,haphazard
   必然については
     necessity,inevitability,・・・・・・
   いろいろあるので、どれが「偶然と必然」に対応する英語なのかといわれると困る。特に注意すべきことは、偶然と必然とにそれぞれ対応することばはいろいろあっても、その中に明確に対になるものはないということである。
   他の言語について私は明るくないので、よくは知らないが、ヨーロッパ言語の中で少なくとも「偶然と必然」というような決まって対になることばは存在しないようである。
   しかし、そうなると逆に、偶然と必然という対概念を作ることが必然か、そうではなくたまたま日本語(あるいは漢語)の特殊性から生じたことではないのか。特に「然」という字の汎用性、つまり一般的に抽象的な状態を表すことばを作る場合に広く使われることから、どちらにもその字が入っているために、概念としての親近性が強く印象づけられているのではないか。このような疑問が生じるかもしれない。
   ここではこの問題には立ち入らないことにしよう。むしろ偶然と必然という対概念がたまたま日本語(漢語)の特性から生じたとしても、私はそのことは幸運であったと考えたい。

(竹内啓著 「偶然とは何か」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

   「リアル」という言葉を考える時、私たちはまず、「現実そのもの」を対象とします。リアルな舞台を創るといった時には、普通、俳優も演出家も、現実に近づこうと努力します。その努力はけっして無駄ではありません。俳優に関して言えば、これが先ほどの「身体の動き、働きを意識する」という作業です。しかし、演劇は、現実に近づけばリアルになるとは限らない。観客とのイメージの共有ができた時に、初めてリアルな世界が、観客の脳の中に立ち上がってくるのです。
   逆の見方も忘れてはなりません。イメージだけが先行しても、それがあまりに現実と乖離していては、観客とのイメージの共有自体ができません。出発点は、やはりあくまで現実世界にあるのです。なぜなら私たちは、人間の現実の身体を離れて演劇を創ることはできないし、通常話している言葉を離れて、まったく別の文法の演劇を創ることもできないからです。

(平田オリザ著「演技と演出」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている。

人間のものを考える能力には、西洋も東洋も、ちがいはない。長い進化の果てに現れた、大きな大脳をそなえた、普遍的な人類があるだけだ。だが、日本人には西欧哲学のシステムは、いまだになじみきることができないし、西欧にとっては、日本人の思考はあいかわらず不可解なところをもっている。日本人は技術と同じように、西欧の思考システムをかりて、ものを考えたり、表現したりしているが、本人は思考の標準語をしゃべっているつもりでも、じっさいにはなまりの強い思考の方言を、語っている。そして、標準語と方言のバランスが絶妙なとき、その表現は世界的にも、すぐれたものを生み出す。

(中沢新一著 「リアルであること」より)

私たちは言葉を通して世界を見ている

天児
   (略)何もない空間で生卵を立てること、それは人が立っていることと非常に近似値になる状態なんです。実際、身体は立っている時には中心を取っている。普段は自覚できないんだろうけれども、中心が必ずあるんだ、ということ。
   何もなかった空間に卵を立て、自分も立っていることの中で密度を感じるとか、そういう配慮ですね。そして、立っている卵を倒さないように歩こうとすると、床面と足の裏の関係は、非常に丁寧な接触になってくる。そのまま動きのスピードを徐々に上げていくとどうなるかとか、そういう過程の中での配慮というか、緊張関係というのか ― そういうものを徐々に養っていくような試みなんですけどね。 

   (蜷川幸雄著 「反逆とクリエイション #10脳が語る言葉、身体が紡ぐ夢/養老孟司×天児牛大」より)